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近況報告_先週号休刊のお詫び

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数学月間SGK通信 [2015.10.06] No.083
<<数学と社会の架け橋=数学月間>>
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メルマガ09月29日号は休刊しました.ご了承ください.
実は,28日の朝6時50分に母は息を引き取りました.
救急車で入院した時は寒い冬で,病院の庭の梅の蕾も硬くこの梅が咲くころには退院しているだろうと
漠然と思ったものです.その梅が咲き,桜が咲き,つつじが咲き,暑い夏を越し,
帰るときには金木犀の香りが満ちていました.259日の病院生活を,ベットの上だけで過ごしました.
百歳の誕生日まで病気知らずで,寝込んだことは一度もありません.
いつも「大丈夫よ」「有難う」と言っていた母でした.
でも今回は,「いつ帰れるのか.さあ帰ろうか」と言ったことが一度ありました.
しかし,その後すぐ点滴づけになり帰る場所がなくなりました.
それでも負けずにこの長期間を頑張りぬきました.
最期の夜も最後の最後まで頑張りましたが朝に遂に力尽きました.スーパームーンの日でした.

葬儀は4,5日に,幡ヶ谷の代々幡斎場で,香典供物は辞退して母を知るご近所と身近な親戚で済ませました.
幡ヶ谷は,母と父が新所帯を持ち,つかの間の母の楽しい時期であった思い出の地です.
敗戦まじか,私はその家で生まれました.父がフィリピン・ボルネオの戦地にいるときです.
母は一人で,赤ん坊の私を押し入れで布団を積み上げ高射砲の破片から守ったのです.
幡ヶ谷の家は空襲で皆焼けてしまいました.父はジャングルでトカゲを食べたりマラリアになったり
破片で背中を負傷したり捕虜で働かされたりしましたが,終戦後3年たってから無事帰国できました.
母と私は父と再会し,暮らし始めた家は幡ヶ谷から1kmほど離れた所です.
ここには現在まで70年近く住んでおります.葬儀には母を知るご近所の方々が参列されましたし,
母方と父方の従兄弟たちも久しぶりに会しましたので,楽しい一時になりました.
ご報告とお詫びまで.次号から数学月間の話題にもどります.