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シュブニコフとハリコフ研究所

ロシアがウクライナ東部のハリコフ占領の恐れと煽りたて,軍を進めるバイデン政権と,その米国の情報に追従する日本の大手新聞やテレビ報道を鵜呑みにしてはいけません.かつての湾岸戦争の勃発も米国の情報操作からでした.ロシアの中庭のようなウクライナをNATO軍事同盟に加盟させるのはおかしいし,米軍がウクライナ東部に軍を進めていること自体が,緊張を高める挑発です.ウクライナがNATOに加盟しなければ,ロシアは戦争を始めません.ロシア人同士が利益のない戦争を好むわけがありません.
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/501693?fbclid=IwAR2G79BFL4C804PPmKIPhBl6pBh23tps_VRkQGG-V1JHYH8bDrZdvng4wHM

ウクライナ人民共和国は,第1次世界大戦では,ドイツ側でソ連と戦ったのですが,両国間で和平が成立し,その後,ソ連邦の一員となります.

第2次大戦では,ナチス・ドイツは,ソ連に対抗するのにウクライナ・ナショナリズムを利用します.一方,スターリンは大祖国戦争と呼び,ナチス・ドイツとの戦いにウクライナを利用します.都市ハリコフは,赤軍とナチス軍との激戦地になりました.ウクライナ・ナショナリズムは,東西の対立勢力にいつも利用されます.今日,米国がNATO軍事同盟にウクライナを加盟させようと,東部ウクライナで危機を煽り,ゼレンスキーは政権安定のためにナショナリズムを煽ります.ハリコフのあるウクライナ東部に住んでいるのは,ほとんどロシア人で親ロシア派です.ロシア軍との戦争は無意味です.

ここで,私は,ハリコフという都市にある,ソ連時代の物理学研究所の歴史を,シュブニコフの活動を軸に述べようと思います.

ハリコフはキエフとならぶウクライナの都市です.ソ連時代の1928年に,ヨッフェが物理学研究所を開設し,1931年にL.V.シュブニコフが極低温研究所を作りました.シュブニコフ=ド・ハース効果に名前を冠したL.V.シュブニコフです.私は黒-白群(シュブニコフ群)に関心がありますが,これに名を冠しているのは,別人のA.V.シュブニコフです.

L.V.(レフ・ワシリエヴィチ)・シュブニコフは,1901年9月29日,レニングラードで生まれ,ペトログラード大学物理数学学部の数学科に入学.物理学を専門に学びました.その年の学生は彼一人だったので,一学年上の学生,S.E.フリッシュ,V.A.フォク,一学年下の学生,A.V.ティモレヴァ,O.N.トラペズニコヴァ(1925年に彼の妻となる)と一緒に講義を聴きました.

物理学科(1919年に分離)の学生や教師は,ヨットが好きでした.シュブニコフも熱心な一人で,1921年秋,フィンランド湾のヨットに見知らぬ人たちと一緒に行き,気がつくとフィンランドにおりました.そこからドイツに追放され,1922年にようやくペトログラードに戻ることができました.工科大学で勉強を続け1926年に卒業します.

研究室では,I.V.オブライモフといっしょに,ある形状の大きな金属単結晶を成長させる方法を完成させた.1926年,ドイツのライデンのド・ハース研究所で,この分野の専門家が必要になったときに,A.F.ヨッフェの推薦でシュブニコフが派遣されました.

当時のライデンは世界で唯一液体ヘリウムを持っている研究所で,さまざまな専門分野の物理学者がライデンに集まりました.P.エーレンフェストは,ライデン大学で理論物理学の講座を開いており,刺激的なエーレンフェストのセミナーでは,A・アインシュタイン,N・ボーア,W・パウリ,P・ディラックらとも知り合うことができました.

ライデン研究所では,ド・ハースと共同で,低温で不純物濃度の低いビスマス結晶の研究で,磁場中の磁気抵抗の振動(シュブニコフ=ド・ハース効果)を発見しています.この効果が物性物理学に重要な意味を持つようになったのは,ずっと後の50〜60年代のことです.現在では,この効果は、固体の量子電子物性を調べるための主要な手段の一つとなっています.

ライデンのモットーは「測定から知識へ」で,シュブニコフにとって実験技術の良い学校でありました.常駐の研究所員やセミナーや研修のための訪問者との交流によって,彼は科学技術を習得ができました.

ヨッフェは1928年に,ウクライナのハリコフに物理学研究所を設立し,1930年にライデンから戻ったシュブニコフは,ここに低温研究所を作ることになります.1931年には早くも液体水素,1933年には液体ヘリウムを得て,1934年からは,当時世界で4番目の極低温センターの誕生の宣言をします.この成功は、シュブニコフの功績に間違いないが,ライデンの研究所長であるド・ハースと,当時ソ連では入手不可能な材料や器具をハリコフに移したキーソムの協力があって実現したものです.

シュブニコフの研究所では,低温技術は優れた監督者 I.P.コロレフが指揮し,
吹きガラスはE.V.ペトゥシコフが行いました.研究所の最初のスタッフにはYu.V.シュブニコフ,その後,ルデンコ,フェドロワ,ミルチン,ベレシュチャギン,ズルニツィン,アレクセーフスキー,キコイン,シャリュートと続き現在に至っています.ドイツからも,契約を結んだり,ナチスの迫害を逃れてきた物理学者たちが研究室で働いていました.

この研究所の主な活動の1つに,超伝導の研究があります.低温物理学の発展に貢献したL.V.シュブニコフの研究者の多くは,マイスナー効果はマイスナーとは無関係で,シュブニコフが彼とほぼ同時に発見したと考えています.また,クルト・メンデルスゾーンによると,合金の磁気特性の研究では,ハリコフ研究所はライデンやオックスフォードより進んでいたという.シュブニコフらの業績に敬意を表し,Hc1-Hc2磁場区間におけるタイプP超伝導体の状態は,シュブニコフ相と呼ばれています.

L.V.シュブニコフの研究室では,遷移金属塩化物の熱的,磁気的性質の研究に大きな成果を挙げ,これが反強磁性現象の実験的発見につながり,L.D.ランダウの興味を刺激したと考えられます.

L.V.シュブニコフとL.D.ランダウは,仕事だけでなく,親しい友人関係でもありました.どちらの名前もLevなので,太ったレオ,痩せたレオと呼ばれたのは面白い.二人ともハリコフ大学の物理学科で教鞭をとりました.

 

しかし,1937年8月6日,L.V.シュブニコフがL.D.ランダウと一緒にクリミアで過ごした休暇から戻った日に逮捕され,スターリンによる粛清の犠牲者となりました.いわれのない破壊活動の罪で起訴され,11月10日に銃殺刑になりました.記録は改竄され,死体もわからず,未亡人は彼が1945年死んだと知らされたといいます.

1956年にL.D.ランダウらにより名誉回復が行われました.ランダウが軍の検察官あてに出した書類は次のようです:
「彼の研究論文の多くは画期的な古典であります.彼がソ連のこの分野の創始者の一人であったことを考えると,低温物理学の分野での彼の破壊活動について話すのはまったくばかげています.彼の熱烈な愛国心は,彼がソ連での仕事のためにオランダでの仕事を自発的に辞めたという事実によって強調されています.L.V.シュブニコフの早すぎる死によって国内科学に引き起こされた損害は,いかなる過大評価も間に合わないほどです」

引用:http://www.ilt.kharkov.ua/bvi/info/shubnikov/shubnikov.html

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